「了雲院」とは、愛知県安城市にある松平家の拠点・安祥城が廃城となった後に建立された浄土宗の寺院です。風光の地として「安城八景」の「了雲院晩鐘」にも数えられています。
また、山門の近くには江戸時代に貧しい農民のために領主に無断で郷倉の米を施して切腹したという義民・中川覚右衛門の顕彰碑があります。
了雲院のアクセス方法と駐車場
了雲院は愛知県安城市安城町にあり、周囲は安祥城址公園として整備されています。
公共交通機関でのアクセスは、名鉄西尾線の南安城駅から歩いて15分です。
マイカーやレンタカーでのアクセスは、東名高速道路岡崎インターチェンジ、または伊勢湾岸自動車道豊田西インターチェンジから25分です。
境内に駐車場があるほか、隣接の安祥城址公園にも無料駐車場があります。
了雲院と安祥城址の歴史
了雲院と安祥城址の歴史について、現地の案内板には次のように書かれています。
市指定史跡 安祥城址 昭和36年10月1日指定
安城城(安祥城)が築かれた年代や人物は明らかではありません。一説には、室町時代の永享年間 (1429~1441)、志貴荘の地頭和田親平によるともいわれます。
江戸時代に記された「三河物語」には、岩津城 (岡崎市)を本拠としていた松平信光が、文明8年 (1476) ころに安城城を奪い取ったとの記述があります。このとき信光は、きらびやかに仕立てた踊りを安城の「西野」で行い、城内の兵が見物に出かけた間に城を奪ったとされます。その後、信光は子の親忠(西忠)を城主にすえました(安城松平初代)。
親忠は子どもたちを分家に出して勢力を広げ、2代の長忠(長親・道閲)の時代には、安城松平家が一族の総領家としての地位を固めます。3代の信忠を経て、4代の清康(徳川家康の祖父)は13歳で家督を継ぎ、本拠地を岡崎に移しました。そして、ほぼ全ての三河地方を松平氏の支配下に置くことに成功します。しかし、この清康は、家臣の誤解によって、天文4年(1535)に25歳で殺害されてしまいました。
天文9年(1540) には、尾張の織田信秀(信長の父) が安城城を攻め取り、三河地方への前線基地としました。この戦いを含め、天文18年(1549)に織田信広 (信長の義兄)と織田氏に捕らえられていた竹千代 (後の家康)が、「西野」で人質交換が行われるまで、約10年間、3度にわたり安城合戦(安城城争奪戦) がくり広げられました。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、安城城は廃城になったとされていました。しかし、近年の研究では、天正12年 (1584)の小牧・長久手の戦いに備え、徳川勢によって、当時の新しい縄張りの設計による改修が加えられたとも考えられています。
了雲院大乗寺が現在の場所に建つのは、江戸時代の寛政4年(1792)以降のことになります。郷土の文化財を大切にしましょう 安城市教育委員会