愛知県岡崎市の大樹寺は、松平家4代にあたる松平親忠が文明7年(1475)に創建した浄土宗の寺院です。代々の松平家・徳川家の菩提寺として知られており、徳川将軍の位牌が安置されています。桶狭間の戦いで敗れた後の徳川家康がこの寺に逃げ落ちて自害を試みた際、住職から諭されて思いとどまったという逸話があります。
大樹寺のアクセス方法と駐車場
住所 愛知県岡崎市鴨田町字広元5‐1
電話番号 0564-21-3917
大樹寺は岡崎市の市街地にあり、愛知環状鉄道「大門駅」より徒歩10分の距離にあります。名鉄「東岡崎駅」からであれば、名鉄バスに乗って「大樹寺」バス停で下車して徒歩5分になります。
マイカーやレンタカーの場合は、東名高速道路の岡崎インターチェンジから県道16号線経由で15分ほどです。
境内には無料の駐車場があります。
大樹寺の営業時間と料金
大樹寺の境内は自由ですが、内部に入って拝観するのは9時から15時(受付は14時50分)まで、宝物殿・大方丈拝観あわせて大人400円、障がい者350円、小中学生200円、幼児無料となっています。団体割引は15名以上に適用で、1人350円となります。
ただし、現在は新型コロナウィルス感染拡大防止のため、収蔵庫のみ拝観休止となっています。
大樹寺の遠隔について
大樹寺の沿革について、境内の案内板には次のように記載されています。
大樹寺沿革
応仁元年(一四六七)八月二十三日井田野の合戦で多くの戦死者が出たので、松平四代・親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念佛会を修し、敵味方の別なく千人塚を作って葬った。その後、文明七年(一四七五)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。それ以来、大樹寺は松平家・徳川家の菩提寺として一千石近い石高を受け、大樹公寺と称し、二十有余の末寺を持つ東海の名刹となった。現在でも岡崎城の天守閣と 大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。本尊の阿弥陀如来は平安末期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。親忠公は愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。松平第九代の家康公は十九才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念佛の尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖洞和尚が門の貫木を引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが今もこの貫木は大樹寺に安置されている。家康公が陣中において人知れず書いた「陣中名号」はたくさんあるが、この寺にも署名された「名号」がおさめられている。松平の御八代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓を模した供養塔も岡崎市民により建てられた。三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。西方に見ゆる多宝塔は天文四年(一五三五)松平七代・清康公の建立で、重要文化財に指定されている。本堂と大方丈は安政二年(一八五五)に焼失したが、安政四年、十三代将軍家定公の時に再建された。大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭の描いたもので、一四六面あり、国の重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。