馬堀用水を開削して打首となった伝説のある田辺小兵衛旧宅

田辺小兵衛旧宅跡 観光

田辺小兵衛旧宅は、江戸時代前期の治水家である田辺小兵衛が住んでいた屋敷の跡で、新潟県西蒲区にあります。
寛永20年、西川堤防から馬堀までの約4キロにわたる用水開削工事を指導して「馬堀用水」を完成させましたが、幕府に無断で工事をしたとして打首になったという伝承があります。
この近くの長恩寺という寺院に「南無妙法蓮華経」と書かれた「馬堀の首塚」の石塔が残されています。

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田辺小兵衛旧宅のアクセス

田辺小兵衛旧宅の所在地は新潟県新潟市⻄蒲区⾺堀です。
自動車でのアクセスは北陸自動車道「巻潟東IC」から10分です。
公共交通機関でのアクセスはJR越後線「巻駅」からウエスト観光バス(栄町線)10分、「馬堀」バス停で下車して南に徒歩2分です。

田辺小兵衛の伝説

現地には次のように「馬堀の首塚」伝説の案内が記されています。

馬堀の首塚

こんなお話

寛永(一六○○年代)のころ、馬堀村は水不足で凶作がたびたび起きていたことから、名主小兵衛は西川から水をひくしかないと考え、代官所や長岡藩に何度も用水計画の許可を願い出て、許しを得た。下調べの役人は「場所が高いから管を敷設しても水は通るまい。中止すべきだ」と言い、小兵衛と対立した。水が通れば役人の、通らなければ小兵衛の首をはねることで工事が始まった。
完工が近づき水が通る見通しがついたため、役人は大工に命じて板のせきをはめさせ水が流れないようにした。このため流水の日、一滴の水も流れず小兵衛の首は切り落とされた。
胴から離れた生首は水の中に飛び込んだかと思うと、しばらくして板をくわえて目をかっと見開き、天高く上がっていった。水は滝のようにごう音をたて村まで流れていった。時に小兵衛三十歳だった。
こうして長く水不足で苦しめられた馬堀と近隣の村村は、小兵衛の命と引き換えに豊かな秋の実りが続いている。

田辺小兵衛の年表

同様に次のとおり田辺小兵衛の事蹟を記す年表があります。

馬堀用水開発の創始者
義人馬堀村名主職 従五位
田邉小兵衛家跡

元和元年(一六一五) 馬堀村に生まれる。
寛永一五年(一六三八) 馬堀久福寺を建立、創立者となる。
寛永一六年(一六三九) 長岡牧野侯に用水掘削を直訴。
寛永一八年(一六四一)  蒲原郡に大干ばつがおそい大被害を受ける。
寛永一九年(一六四二) 大干ばつの被害甚大の状態を見た長岡藩、小兵衛の熱意に応じ用水掘削の内諾を与える。
寛永二〇年(一六四三)  八月、用水掘削工事着工。
正保元年(一六四四) 七月二十五日、用水掘削工事完成。
正保二年(一六四五) 幕府大公儀所役人、長岡牧野領内巡見の際に詰問され、藩では小兵衛独断工事であるとして藩の責任を逃れる。
正保二年(一六四五) 七月二十五日、罪を受け自殺を申し渡さる。時に年齢三十歳、自らの刃に伏される。
年月不詳 数年後、用水路の重要性が認められ存続を許された。これにより馬堀一帯、関係村落の水不足が小兵衛の命と引きかえに解決する。

新潟市文化財

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