富山県高岡市の国泰寺は、臨済宗国泰寺派の総本山です。正安元年(1299年)に慈雲妙意が二上山にあった草庵を寺として摩頂山東松寺と号したのがはじまりとされ、その後後醍醐天皇の勅願所となりました。明治時代には廃仏毀釈による荒廃を憂いた山岡鉄舟らの尽力で再興され、臨済宗国泰寺派として独立し現在に至ります。哲学者の西田幾太郎や鈴木大拙が若き日に禅の修行をした場所でもあります。
国泰寺のアクセス方法と駐車場
国泰寺は二上山麓にあり、公共交通機関でアクセスする場合、高岡駅より守山経由氷見行の加越能バスに乗って国泰寺バス停で下車します。このバス停からは徒歩15分ほどかかります。
マイカーやレンタカーの場合は、能越自動車道高岡北ICより車で約15分ほどです。
駐車場は山門の下に若干台あり、無料です。
国泰寺の由緒・歴史について
国泰寺について、同寺に掲げられた案内板には次のとおり記載されています。
大本山 国泰寺
当寺は臨済宗国泰寺派の本山で慈雲妙意(清泉禅師慧日聖光国師)を開山とする。正安年間(一三〇〇頃)紀伊由良の興国寺の法燈国師に参じ、その印記を受けた慈雲妙意は、二上山上に摩頂山東松寺を創開。
その後、後醍醐天皇の帰依を受け、嘉暦二年(一三二七)には「清泉禅師」の号を賜り、翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王萬年禅寺」の勅額を下賜され、東松寺を改めて国泰寺と称すると同時に、「北陸鎮護第一禅刹特進出世之大道場」として京都南禅寺と同格の勅願所となった。
更に北朝の光明天皇も慈雲妙意に深く帰依され、全国に安国寺を建立された際には、当寺をもって越中国の安国寺と定められ、貞和元年(一三四五)六月三日、慈雲示寂に際しては「慧日聖光国師」の諡号を受けている。
その後、応仁(一四七〇頃)から天文(一五五〇頃)年間にかけての戦乱、特に上杉謙信の越中侵攻によって当寺は荒廃したが、天正年間(一五八〇頃)雪庭和尚は後奈良天皇の綸旨を受け、二上山より現在地に移って国泰寺を再興した。
江戸時代に入り貞亨三年(一六八六)には現在の大方丈が建立され、将軍綱吉は当寺をもって法燈派総本山とし、享保年間(一七二〇頃)には萬壑和尚等によって伽藍の大整備が行われ、ほぼ現在の形になった。
明治維新になると排仏毀釈の余波を受けたが、越叟・雪門両和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、天皇殿の再建をはじめ堂の修造に努めた。
昭和十一年には現在の庫裡を再建、四十二年に観音堂の建立、四十九年には月泉庭ならびに龍渕池(放生池)が完成、更に五十年に台所、宿泊所を増築し現在の風趣を呈するに至った。
また国泰寺は、普化尺八をもって臨済禅師、普化禅師の偉徳を行ずる「妙音」の根本道場でもあり、妙音会虚無僧によって伝承されている。
北陸の生んだ思想家 西田幾多郎や 鈴木大拙はその若き日当国泰寺に参禅、雪門和尚に師事している。