兵庫県神戸市の湊川神社は、京都を戦場とするのを防ぐため、湊川まで進出して足利尊氏の軍勢を討とうとして敗れた南朝方の忠臣・楠木正成公を祀っています。江戸時代にも水戸藩主の徳川光圀が「嗚呼忠君楠氏之墓」の墓碑を建てていますが、明治時代に神社化しています。同様に南朝の忠臣を祀った建武中興十五社のひとつです。
湊川神社のアクセス方法と駐車場
湊川神社に公共交通機関でアクセスするには、阪神電気鉄道・阪急電鉄の神戸高速線「高速神戸駅」で下車すればすぐです。
マイカーやレンタカーの場合は、阪神高速3号神戸線「京橋出入口」又は「柳原出入口」から約5分です。
参拝目的の場合は境内西側から駐車場に入れます。
湊川神社の由緒
湊川神社の御由緒について、社頭の案内に次の通り書かれています。
湊川神社
所在地 神戸市中央区多聞通3丁目1番1号
御祭神 (主神)楠木正成公(大楠公)
(配祀)楠木正行卿(小楠公)及び湊川の戦で殉節された楠木正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿
摂社 甘南備神社(御祭神、大楠公夫人)
境内神社 楠本稲荷神社(御祭神、倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命)
菊水天満神社(御祭神、菅原道真公)
由緒
大楠公は、元弘元年(一三三一年)九月に御醍醐天皇の命に従い挙兵、やがて鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績をあげられた。しかし、謀反により一時九州へ敗走した足利高氏の大軍を、大楠公は、ここ湊川で迎撃、激戦の末、延元元年(一三三六)五月二十五日、弟正季卿と「七生報国」を誓って刺交し、殉節を遂げられた。
その後御墓所は、豊臣秀吉検地の際、免祖地とされ、江戸時代初期には摂津尼崎藩主・青山幸利公によって松と梅が植えられ、五輪の供養塔も建てられた。更に元禄五年(一六九二年)、水戸光圀公(義公)によって、墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立、大楠公の御盛徳が天下に顕彰された。
これにより、大楠公景仰の気運が愈々高まり、やがて維新回天への力強い精神的指導力となった。
そうした幕末から維新にかけて、尊崇して已まない大楠公、その御神霊を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(一八六八年)四月、明治天皇は、神社創祀の御沙汰書を下された。
よって明治五年(一八七二年)五月二十四日、社名を「湊川神社」とし、初めての別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭、翌二十五日楠公祭が斎行されて、ここに湊川神社が創建された。
御盛徳
大楠公は、智・仁・勇の三徳を備える非常な人格者で、聖人とも仰がれた武将であった。
大楠公の忠誠と正義とを以て貫かれた精神は、楠氏一族子孫に至るまで受け継がれ、日本史上これほど偉大な影響を後世に及ぼした人はない、と言われるほど、その後の国民に大きな感化を与えたのであった。
祭日 楠公祭 五月二十四日(宵宮祭)、二十五日(本祭)、二十六日(翌日祭)
例祭 七月十二日 その他各月恒例祭あり
国の指定史跡 「楠木正成戦没地」(大楠公御殉節地)、境内西北隅
「楠木正成墓碑」(大楠公御墓所)、境内東南隅