大阪市天王寺区にある四天王寺は、聖徳太子が建立した寺院のひとつで、我が国で建立された本格的な仏教寺院としては最古級のものといわれています。広大な境内には五重塔をはじめとするさまざまな建物が立ち並び、元三大師堂や石舞台などの国重要文化財に指定されているものもあります。
四天王寺のアクセス方法と駐車場
四天王寺に公共交通機関でアクセスする場合は、大阪メトロ谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅で降りて徒歩約5分です。
マイカーやレンタカーの場合は、阪神高速一号環状線夕陽丘出入口で降りて5分です。
南大門わきの有料駐車場や、中之門から入って六時堂裏の駐車場を利用します。
四天王寺の由緒
四天王寺の由緒については掲示板に次のとおり解説されています。
四天王寺と椎寺
この顕彰板の建つ場所は、今は住居表示で四天王寺1丁目と呼ばれていますが、椎寺町ともいいます。昔、四天王寺の境内地には桂の大木があり、それを天台宗の開祖・伝教大師最澄が自らその木を切って薬師如来像を彫り、境内北(現在の中之門あたり)にそれを祀る椎寺薬師堂を建立されたことが始まりです。その薬師堂は、落雷により焼失していた四天王寺六時堂の代わりとして、文化8年(1811)に六時堂跡に移設され、現在に至ります。
四天王寺は推古天皇元年(593年)に聖徳太子により、衆生救済と佛法興隆のため創建された日本最古の官寺です。四天王寺の西門「石ノ鳥居」 はそのまま西方極楽浄土の東門に繋がるという信仰が平安時代から盛んになり、特にお彼岸の中日には、真西に沈む夕陽を望み極楽浄土を観想する「日想観」が行われました。 空海や 最澄・法然・親鸞・一遍など、歴代の高僧らも訪れました。夕陽丘の名称の起こり
夕陽丘は上町台地中央部一帯の総称で、台地西側の急崖から大阪湾に沈む落陽の風景を望めること、そして『新古今和歌集』の撰者藤原家隆(保元3~嘉禎3《1158~1237》) が「夕陽庵」を立て晩年を過ごしたことに由来します。家隆は臨終の際、「契りあればなにはの里に宿りきて波の入日を拝みつるかな」の詠歌を残し、また、夕陽丘町には 伝藤原家隆墓「家隆塚」があります。当時は高層建築物が無く、海岸線も現在より内側にあった明治以前には夕陽の絶景を楽しめたことでしょう。
上町台地と天王寺七坂
夕陽の絶景を望めるのは台地の西側が急崖になっているからですが、 この故に「天王寺七坂」として、逢坂・天神坂・清水坂・愛染坂・口縄坂・源聖寺坂・真言坂の坂が知られています。坂名から察せられるように、この一帯は佛教寺院や神社が多く集まる地域でもありました。
地域としての天王寺
「天王寺」という地名も四天王寺の愛称「天王寺さん」が起こりで、創建以来愛染坂地域と神社佛閣は密接に歴史を積み重ねてきたことが窺えます。また天王寺は その地の利の良さ故に、織田信長と本願寺勢との石山合戦では合戦の場となり、大坂の両陣では、徳川家康の本営が置かれました。近々では第二次大戦での大空襲により街並みが灰燼に帰しましたが、戦後復興の先駆け的存在感を示しました。現在は、主要鉄道網が集中する交通ターミナルであり、商業施設が立並ぶ繁華街を形成し、また市内有数の文教地区として知られています。